防大ラグビー部OB投稿記事
OB各位からの投稿記事です。

 
 諸先輩から防衛大学校ラグビー部でのエピソードを投稿していただいた記事等を、掲載させて頂いています既に現役は60期生台の学生であり、OB会としても諸先輩が遺された輝かしい業績を現役に伝えることも必要ではないかと考えております。

投稿者 標   題 備   考
8  佐藤文彦 同期の鬼沢君の著書の紹介 メーリング【NDA_Rugby_OB】へのコメント
石田潔 かくして部歌は誕生した 27年度OB会報第1号への投稿記事
13 高岡 進 がんばれ防大ラグビー部 27年度OB会報第1号への投稿記事
山下永二 追 憶 メーリング【NDA_Rugby_OB】入会時のコメント
8 鬼沢 勲 松本夏合宿の思い出 メーリング【NDA_Rugby_OB】へのコメント
8 鬼沢 勲 伊丹夏合宿の思い出 メーリング【NDA_Rugby_OB】へのコメント

メーリング【NDA_Rugby_OB】へのコメント
同期の鬼沢君の著書「生涯現役奮闘記」の紹介 
 8期 佐藤文彦 
8期OBの佐藤文彦です。
この度、同期の鬼沢勲君が次の本を出版しましたので紹介させていただきます。
この本は、同君が後期高齢者となった機会に、定年後の16年をふり返り、
仕事を通して体験したことを取りまとめ「生涯現役奮闘記」というタイトルで
出版したものです。
内容は、定年後もラガー精神で歩んできた自分の体験を紹介しながら、よりよい
第二の人生の過ごし方をアドバイスしています。
尚、既に通販ネットのアマゾンや紀伊国屋書店、丸善などのホームページで
紹介されています。
タイトル:「生涯現役奮闘記」
帯  文:定年後、第二の人生をどう生きるべきか
76歳、現役で働く後期高齢者が書いた、体験にもとづく反省と提言の記録
著 者:鬼沢勲
出版社:東京図書出版
発 行:本年10月末
判 型:四六判 102ページ
定 価:1000円(税込み)
販 売:ネット通販のアマゾン、紀伊国屋、丸善など全国主要書店で販売
(在庫がなければ取り寄せが可能です)



メーリング【NDA_Rugby_OB】へのコメント 
伊丹夏合宿の思い出
 8期 鬼沢 勲 
 昭和37年(7期生が4年時)、私が3年時の合宿は伊丹で行われた。
暑さと蚊が多いのには参った。夜は蚊帳をつり、暑さで寝苦しく濡れタオルを胸に乗せて寝た。
 伊丹駐屯地(中部方面総監部が駐在)の宿舎から千僧駐屯地(三師団司令部が駐在)のグランドまで2キロ弱であった。練習疲れのためか長く感じた。日中の暑さで、グランドで倒れるものが続出し、午後の練習開始を1時間遅らせた。
 グランドへの道は、人通りの少ない裏道であった。練習の帰り道、渡辺監督が皆を元気づけるため、監督の音頭で、”向こう通るは、女学生、3人並んだその中で、モストビューティは・・・・・・”の合唱をしながら歩いた。
ここには堀場3佐(昭和21年同志社大卒)が勤務しており、指導を受けた。
堀場3佐は、伊丹自衛隊チームの育ての親であり、チームは関西社会人リーグで活躍し、全国社会人リーグにも毎年名を連ねた。
合宿後半、バスを借り、京都の同志社大学に練習試合に行った。当時同志社大学は、関西大学リーグの筆頭であり、昭和36年(合宿の前年)には、早慶明3校を連覇し、更にNHK杯(社会人トップと学生トップの試合で現在の日本選手権にあたる)で社会人の覇者近鉄を破り、初の日本一に輝いている。岡仁詩監督(当時32歳)の監督就任3年後の快挙である。
 試合は、先方は前半フルメンバーを出さず、防大がリードした。後半フルメンバーできたが、必死のタックルで健闘し勝ってしまった。
 その後サンヨー(現在のパナソニック)で活躍し、監督になった宮地克美選手(フロントロー)、近鉄で活躍した石塚広治選手(バックロウ)、坂田好弘選手(ウィング)が控えとして後半参加した。各選手はその後オールジャパンで活躍し、多くのキャップを保持している。
 試合前には、同大のコーチ陣からスクラムのバインディング(低い姿勢の取り方)を教わり、早速取り入れた。
7期生チームの活躍(Bブロックで早大に次いで準優勝)の原点は、この一戦が自信につながったことにあると言っても過言ではないであろう。
 岡監督は、その後多くの名選手を育成し、大学選手権では、大八木淳史選手、平尾誠二選手らが在籍した昭和57年〜59年度に史上初の3連覇を果した。また日本代表監督に数回就任したのをはじめ、日本ラグビーフットボール協会強化委員長も務めた。


メーリング【NDA_Rugby_OB】へのコメント 
松本夏合宿の思い出
 8期 鬼沢 勲 
 私は8期の鬼沢です。この度、山下先輩(6期)の記事を読ませていただき、当時のことを思い出した。二部落ちした慶応とは2年時、早稲田とは3年時に対戦した経験を持っている。印象に残る夏合宿について書きます。
 昭和36年(6期生が4年時)、私が2年時の夏合宿は、松本駐屯地で実施された。当時松本の第13普通科連隊長は、自衛隊ラグビー育ての親と言われる、京大OBの高尾恭三1佐であった。高尾1佐は、1期、2期時代の防大ラグビー部の部長である。 
 松本駐屯地は、周辺を上高地、美ヶ原高原などの山に囲まれ、自然豊かな環境にあり、標高は500M程度で、夏でも日陰に入れば涼しく感じた。
 連隊には、山岳部OBの3期生若浦義弘3尉(当時)が勤務されており、お世話になった。
 防大山岳部もここをキャンプ基地として上高地での山岳訓練をしていた。
 松戸自衛隊もここで合宿しており、練習試合をした。松戸自衛隊は、関東大学リーグで活躍した日大OBの久保田選手、地代所選手を有する職員・制服の混合チームで、関東社会人で上位にランクされていた。前年(昭和35年)の関東社会人Aブロックで5勝1敗1分の成績で、三井精機と同率優勝しており、攻守のバランスのとれたチームであった。
 特にチームの要であるスタンドオフ 久保田選手の動きはスピーディーで、あたりも強く見事なものであった。 
 奈良県の天理高校が近くで合宿しており、市営グランドで練習試合をした。当時天理高校は、正月のインターハイで上位に残る常連校であった。しかし、やはり高校生でフォワードの力には差があった。
 松本駐屯地には、その後連隊長としてラグビー部OBの伊藤君(8期、旧姓松園、昭和62年3月〜64年3月)、川辺君(10期、昭和64年8月〜66年6月)が勤務している。
 一昨年(2014年9月27日)水蒸気爆発により噴火した御嶽山(標高3,067M)の救助活動では、ここの部隊を中心に出動し、大型ヘリの活躍とともに山岳部隊として、そのスキルの高さが評価された。 
 
追記:次回(明日)は、翌年の伊丹合宿について書きます。



メーリング【NDA_Rugby_OB】入会時のコメント 
追  憶
 6期 山下永二
私は、防大6期生です。渡辺長治先生が監督していた時代のラグビー部員でした。
当時は、関東地区14大学が関東ラグビー1部と2部に別れ闘っていました。
3年の時だったと記憶しますが、法政大学が全盛時代で名門早慶が2部へ落ちるということがあり、早大、慶大、明大、立大、青学大、東教大、東大7校の伝統校を主体とする「対抗戦グループ」と法大、中大、専大、日大、防大などの新興主体とする「リーグ戦グループ」に分かれることになりました。
新しく参加する大学は、「リーグ戦グループ」に入り、2部制で構成していました。
その後新興ラグビーチームはこれに加わり3部へと増加するようになったのでしょう。
現在のこのリーグ戦が継承されている初期時代でした。
 その後、3佐の時 4大隊の中隊指導官で2年間勤務しました。
長さんが(当時の学生間では親しみを込めて呼んでいた)部長で、監督がベテランの広畑さんでした。
学生は、19期〜24期でした。確か中谷防衛大臣は、新入生で入学(入部)したばかりでした。
防大ラグビー部は、現在100名を超える伝統部として活躍していることに頼もしく思っています。
 筑波大が推薦入学によりラグビーレベルを高め日本のラグビーをリードしていますが、防大も推薦入学を実施しているようなので、数人でも入部すれば強化されるのではないかと思ったりしています。

OB会報への投稿記事   
 頑張れ 防大ラグビー部
  13期ラグビー部 主務 高岡 進  (雑感)
 わがクラスも今年で70歳になりますから、48年も前のことです。ボケ始めた今、正しく後輩に伝えられるかわかりませんが、少しでも参考にしていただければ幸いです。
渡辺監督の御宅にお邪魔した時、奥様から、今年のシーズンは調子が良いんですかと聞かれた。奥様によれは、調子の良い年は、多くの学生が良く遊びに来てくれるとのこと。先生も喜んでいらしたのだろう。
13期は緒戦、国士舘大学と対戦、快勝し、2戦目も日本大学に善戦、勝利を掴んだ。
 監督会議に行かれた渡辺先生が、大学ラクビーの双璧北島先生(明治大学監督)から「今年の防大は強いねと」声を掛けられ、大いに感激され,歓喜されていたことを思い出します。
それまでの全国大学選手権には、関東からは対抗戦、リーグ戦の上位2チームが、自動的に出場していましたが、どうも対抗戦、リーグ戦のアンバランスから、対抗戦1(4)位とリーグ戦4(1)位、対抗戦2位とリーグ戦3位とが交に交流試合という名称で、対戦し勝者が、大会に参加する方法に変更になりました。だから上位4位までに入れば、全国大会に出られる資格が得られることになりました。(同期の二宮 修サブキャップ(後、空自総隊司令官)の提案が採用されたと聞いています。)
リーグ戦の結果、専修、中央,法政に次いで、防大は4位となり、初の交流試合が決まりました。(優勝の専修は、4位の慶応に負け、当年の大学選手権は確か 早慶の、両校の優勝でした)
 対戦相手は、対抗戦1位の早稲田大学に決まりました。相手にとって不足なし。
12月上旬ともなると、秩父宮の芝は禿げ、あいにくの雨が続き、グランドコンディションは、最悪、防大にとって、マイホーム、いつもの小原台グラウンドでベストでした。
その頃は、大学ラグビーは今のように選手の交代は負傷しても認められず、35分ハーフ、トライも3点でした。試合の前に協会から40分ハーフでやりたいと申し出があり、また、ボールボーイは、早稲田がいたしますとの申し出がありました。(wに都合がいい?)
本当に試合は、一進一退の好勝負、早稲田の華麗なプレー、防大の素晴らしいタックルには、秩父宮の観客からも大声援が湧き上がりました。試合の結果は、15対3だったと記憶しています。本当に惜しい試合でした。翌日の新聞各紙は防大健闘を大いに賞讃していました。
試合後のクラブハウスでの懇親会スピーチで、早稲田大学大西先生から、トラファルガーの海戦で大勝利をしたネルソン提督に「海戦は、きつい戦いでしたね」と聞いたところネルソンが今まで鍛えてきたラグビー場での死闘に比べたら、何ということはなかったよと言う、話をなさいました。海上防衛学の教官が話すならわかるけど、早稲田大学の大西先生が秩父宮のクラブハウスでお話になったことに、大感激しました。
 なぜ、先輩たちと同じラグビーをしてきたのに13期が好成績を得ることができたのだろうか。
新たに迎えた広畠監督(同志社OB 空自パイロット、オールジャパン名選手)の指導を素晴らしいものがありました。教育の場のラグビーではなく広畠監督の勝負のラグビー、理論的でよく皆が理解して付いて言ったこと、タックル、タックルなど、猛練習に耐え、厳しかったが、ラグビーが楽しかったこと。努力の遠藤キャプテンのもと。部員が一丸となってチームに纏まりがあったこと。
そして、14期の強いサポートが、あつたからだと思います。本当にありがとうございました。
勝敗は時の運、最後の最後のノーサイドのホイッスルの笛が鳴るまで、頑張ってください。 


OB会報への投稿記事 
かくして部歌は誕生した
7期 石田 潔
 1962年春のシーズンまで、防大ラグビー部は試合後のミーティングでの交歓で、いつも学生隊歌を合唱していた。相手の大学は伝統的なラグビー部歌であった。「海青し・・・新たなる日の本のため」と歌いながら、できれば「防大にもラグビーの歌があればいいなあ」という気分があった。「防大ラグビー部創部10周年を機に部歌を創作すべし」の声が酒酌み交わしながら盛り上がった。いつものように副将の江勝典が音頭をとって「マネージャーの仕事や、石田、何とかしろ」ということになった。主将岡本康行はもとより、渡辺長治監督も大乗り気だ。
 それにはまず歌詞を作らねばならない。後日みんなで検討して七期生の作詞とするという条件で、石田が引き受けた。そして旬日、階段教室の黒板に石田案の部歌を書いて、7期生10人ほどに意見を求めた。しかし、どう見ても詩心のある面々ではない。「ウーン、いいんじゃないか」などと丸投げの気配。ただ一つ、「ラガー」の繰り返す回数を2回にするか3回にするか、阿部暉、大森康正、荒谷紀邦あたりから意見が出て議論になった。結局3回に納まり、歌詞は原案通り決定された。
 監督の了解を得た数日後、海上自衛隊東京音楽隊の演奏会が講堂で開催中だと知らされて、チャンスだと思った。早速会場の前に行ってみると、演奏会は終了し音楽隊員を載せたバスが発進せんとしている。それに手を上げて止めてもらい、バスに乗り込んで「隊長はおられますか」と聞いた。「私だ」と右側の座席より声が上がった。片山正見一等海佐であった。
 どういう挨拶をしたかは失念したが、折りたたんだ歌詞の紙を広げながら「ラグビー部の部歌です。作曲をお願いします。対戦相手の大学との交歓のために必要なんです」と口走った。いまだに冷や汗の出る無礼千万であった。しばし歌詞を眺めておられた隊長は「元気な曲がいいんですか」と笑顔でおっしゃった。「ハイ、ラグビーですから」と馬鹿な返事をしていた。
 それから2ヶ月ほどして石田宛てに部歌のテープが届いた。東京音楽隊の演奏で男性歌手の吹込みがなされていた。これを繰り返し聞いて、歌ってみんなで覚えたのであった。これが例えば作曲の音符をいただいたとしたら、部歌としてマスターするのは容易ではなかっただろう。作曲し、編曲し、演奏し、独唱まで入れていただいた隊長のお心配りに今更ながら頭が下がる。片山一佐は東京音楽学校(現東京芸術大学)のご出身で、この年副隊長からご昇進されたばかりの気鋭の隊長なのであった。
 まさに地獄に仏のような幸運に恵まれた。「スマートで目先が利いて几帳面」の見本のようなシーマンシップを見せていただいた。これに対するラグビー部からのお礼は、監督の電話とマネージャーの手紙を付した防大の菓子折りであった。このテープは学生食堂の朝、:昼の食事時に披露して反響があった。何しろ防大校友会の「部歌」なるものの第一号だった。他の運動部等も部歌を検討するきっかけになった。このテープが、何時からか行方不明になっているのは残念無念である。